東京木曜会2023年3月例会報告
日時:3月16日(木)18:30~
場所:国際フォーラム東天紅
福田幹事長の“今日は18名の御参加で”の言葉から、河野会長のご挨拶「14日、まさかの桜の開花宣言。年々早くなるようですが、桜は散らずにマスクの花は早く散ってほしいと思います」に続く「挨拶はこのくらいで松本先輩を私が紹介するのも何なんで自己紹介ということで」で3月例会、始まりました。
今回の講師は白門三八会の松本彧彦先輩。先輩は250回以上台湾を訪問されており、日台問題の第一人者です。その松本先輩“台湾のことについては詳しいですが、他のことはよく知りません”と仰って話始められました。
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日本占領下の台湾、日中戦争、第二次世界大戦、終戦、国民党と共産党、国共合作・内戦、中華民国、中華人民共和国、約50年の流れを説明しつつ台湾での出来事、主に2つの話をされました。
1つは『霧社事件』。日本の占領下にあった台湾の霧社で1930年に起きた事件
入植した日本人が開催していた運動会をセデック族(松本さん曰く首狩り族)が襲い、男女老若を問わず鉈状の武器で首を刎ね、結果130人以上が犠牲になった。きっかけはセデック族の若者による日本人巡査殴打事件。日本側の報復を恐れたセデック族が先に日本人を襲撃し、日本側は武力による鎮圧を行なった。セデック族のみならず多くの先住民を巻き込んだ戦闘に発展し、数百の部族民が犠牲になった。占領下の台湾では先住民族に対する同化政策と隔離政策が同時に進められていて、反発する部族も多かった。根底には渦巻く不満があって起きた事件。この事件、私は初耳でした。
台湾総督府時代は犠牲になった日本人を悼む碑があったが、国交断絶後それは打ち壊され代わりに台湾人犠牲者を祀る碑が建てられた。今はセデック族長と犠牲となった無名の人々の群像が建てられている。ここを訪れた松本さんは是非とも双方の犠牲者を悼み弔う場にしたいと、新たな碑を建てる為に奔走しているそうです。コロナが無ければ、もう実現していたかもしれないとのことでした。
もう1つは松本さん“自慢話かも”と仰る日中国交回復前夜の台湾でのお話
敗戦後、被占領国であったにも拘らず友好的な関係だった台湾と日本。国連にも加盟し、日本は高度成長期を迎えた頃。中華人民共和国が勢力を伸ばし始め国連でも“二つの中国”問題が議論される。1971年のアルバニア決議を受けて台湾は国連を脱退、代わって中華人民共和国が常任理事国に。
日本ではどちらと和平条約を結ぶべきかで国会も紛糾していた。国際的には中華人民共和国を国として認める方向に動いていて、日本も大陸を無視は出来ない。台湾に特使を送って穏便に解決したいが、外務省の再三の申し出を台湾は断り続け、困った外務省は自民党の青年局の一員として台湾を何度も訪問していた松本彧彦先輩に白羽の矢が。一旦は断ったが、自民党員だろう君しかいないと頼まれ、承諾。
松本さんが行くと言うと“俺なんかが行くって言ってもダメだろう”と思っていたのに以外にも台湾側のOKが出て、特使団の1員として台湾へ。若き日の松本青年の写真の載った外交旅券を見せて頂きました。
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ここまで話したところで“続きは次回ということで食事を”と河野会長からの声かけがあったのですが、松本さんは“皆さんお食事して頂いて僕はまだまだ話したいので”と。今回はイレギュラーで2時間ほど先輩のお話を聴くことになりました。
乾杯とゲスト参加の星野紘紀(松本さんと同期のS38年卒)さん、佐野友映(H3卒)さん、久々に参加の古川さん、お三方のご挨拶があり、WBC日本対イタリア戦の中間報告“まだ3回です”の後、松本さんのお話再開。他の皆は食事とアルコールを楽しみながら傾聴。
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台湾で松本さんは蒋介石の側近である張群と会う。台湾総統府の1室に張群を訪ねたそうです。松本さんが青年交流で度々台湾を訪問していたので“一介の職員でしかない私の話を聴いてくれた” と。そして日本からの特命全権大使受入れを承認してくれた。
この時、台湾には日本の右翼が大挙して押しかけ“椎名悦三郎特使を殺す”と脅しをかけていて松本さんは“右翼と渡り合うのなんか慣れてるでしょ”と右翼団体大日本皇誠会との交渉役にさせられ、総裁と会った。“外国で日本人同士が騒ぐのは良くないだろう”と話し、合意を得た筈が特使面会の当日日本のステッカーを付けた車列は右翼に囲まれ14台中7台はベコベコにされたそうです(驚!)。戒厳令下にも拘らず沿道には台湾の群衆が溢れていたと。日本側の宿舎は平静だったが、実は庭木の剪定をいていたのは全員“警察関係者” だった!
この会談で“貴国台湾とは従来通りの外交関係を継続”と椎名特使は語ったが、特使団帰国直後の9月25日田中・大平・二階堂らが訪中、日中国交正常化共同声明が調印され、椎名特使の面目は“丸つぶれ”に 。
この時の会談では台湾との関係は今まで通り、中華人民共和国とは正式に国交を結ぶという“玉虫色”の誓約をした形になったと松本さん。時代の渦の中からの話を、少し聴くことができました。
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ここからは松本さんの思い
未だに日本と台湾には国交が無い、が、仲は良い。何故か。戦後成立した国民党政府下では本省人(元々の台湾人)と外省人(大陸から渡って来た人)の不平等が激しく、日本の統治下を「こんなことなら日本の方が良かった」と懐かしむ人々も多かった。今でも日本統治時代の建設物を使い続けている所も多数あり、日本に対して好感を持つ人々も多く、3.11東日本大震災の時には真っ先に援助の申し出をしてくれている。被災地への援助も250億を超えていた。
日本は感謝の意を充分に伝えられていないのではないかと、思っていたところ岩手、宮城、福島の知事から“何か考えて”と依頼が。“感謝の気持ちを行動で”と日本の領土から台湾まで泳いで渡るのはどうだろうと。与那国島からなら110キロと一番近い、できるのでは?沖縄の漁師さんの協力も得て実行することに。9月は潮が比較的に穏やかで行けると判断し日程を決定。当日は折悪しく台風の余波で波が高く好条件とはいかないながら、決行!船団の並走、鮫対策に防護ネット、ダツ対策に弱電流と万全を期して2011年9月17日、出発。途中、台湾側で待つ松本さん達とスイマーとの連絡が取れなくなるなどハラハラ、が、2日をかけて達成。無事に感謝のメッセージを台湾に届けることができ、心底、安堵。松本さん“あんな無茶、今なら絶対やらない(笑)”と。
台湾では“肉弾三銃士”ならぬ“肉弾六銃士”と新聞で大々的に取り上げられたそうです。スイマー6人の中には福島出身の中大水泳部員、山田浩平さんもいました。悪条件の中決行された挑戦でしたが、皆、怪我も無く泳ぎ切ることが出来ましたが“山田君だけクラゲに刺された”と(笑)。????
東日本大震災の後、松本さんが訪れた台湾の小学校で校長先生から「この校舎は日本の援助で再建できたんです」と言われ、説明を聞くと、以前の校舎は1999年の921大地震で倒壊して子供たちも犠牲になった、そこへ日本が援助の手を差し伸べてくれ、校舎が再建できたと。大勢の子供達が「日本は今、大変な事になってるから」と貯金箱を持って来てくれ、200万近い寄付が集まった…思いだす度に涙がでる…と松本さん。
自由主義経済界の“仲間”であり日本の援助に感謝し続けてくれている台湾とは、良好な関係を続けるべきではないかと松本さんは考えていると。今、大陸の中国が台湾を実質支配しようと動いている。何故中国は台湾を欲しがるのか。日本の周辺海域を見ると公海上に出る為には台湾は是非とも欲しい土地。制海権を握りたい中国と台湾が戦闘に発展する可能性もある。“台湾有事”この時日本はどう動けばいいのか。悩ましいところではあるけれども、台湾と日本が緊密な関係を築くことが中国に対する“抑止力”になるのではないかとも考えているそうです。
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ここからやっと松本先輩、お食事。「僕、食べるの早いから」と仰って急いで召し上がられていました。
福田さん:松本先輩、時間ありますからゆっくり食事してください。―笑―ゴルフコンペと旅行会のお報せです。ゴルフコンペ5月にやります。旅行会は河野会長の故郷、山梨に行きます。山梨の常磐ホテル、中大の卒業生が社長さんです。後日、ご案内を差し上げます。では、締めの挨拶を境さんお願いします。
境さん:松本さん、ごゆっくりお食事しててください。松本さんが関係している『台湾に桜を贈る会』で私も何度か台湾に行きましたが、大成建設が造ったダム(烏山頭ダム)があるんです。この建設に尽力した日本人の銅像もあります。台湾と日本は関係が深い。中国が台湾に侵攻したら、米軍基地のある沖縄は攻撃されるかもしれない、私もこれが一番心配です。松本先輩、あ、今、デザートですね(笑)。では、三本締めで、お願いします!
皆で、シャシャシャンシャシャシャンシャシャシャンシャン×3でお開きとなりました。
二つの中国と日本の関係…この流れを現場で見ていた若き日の松本さん、貴重なお話を伺えました。ありがとうございました。
福田さんの“名札、お忘れなく”に送られて散会。幹事さん方、お世話になりました。
(木曜会・柳)